「初めて手にした給料で、『東北中薬草』という専門書を買いました。その本には、この地方で採れる薬草が図解されていて、それをどのように配合するとどんな病気に効果があるかが書かれていたんです。
私は無理とはわかっていても、いつかは医者になりたいと思っていました。だから、本を頼りに薬草を集め、調合を繰り返していました」
そんな振国少年の独学の成果が問われるときがある日やって来た。村に気管支を患い苦しんでいる老人がいたので、彼は自分が調合した薬を頼んで飲んでもらうことにしたのだ。すると、その効果は2、3日して現われ、1ヵ月もすると、老人は畑仕事に出られるほどになった。
さらに同じころ、村で下痢が流行ったが、彼が調合し、煎じた薬でほとんどの症状が緩和した。村人たちは喜び、彼の薬草に関する知識を認めるようになった。
それによって、仕事のほうも養豚担当から獣医へと昇格した振国は、さらに鍼灸の勉強を始めるようになった。彼が16歳のときのことだ。
公益村に薬草に詳しい、鍼灸もできる少年がいるらしい.....。 そんなウワサが村人を通じて広がり、それが人民公社衛生学院の院長の耳にまで届いて、振国を見習い扱いで呼び寄せてくれた。
しかも、その直後に人民政府が地方都市に医師を養成する学校を作る方針を出し、通化にも吉林省通化市衛生学校が設立されることになった。彼は、卒業後1年間は出身地で医師として働くことを条件に、ここに入学を許された。
「私は幸運でした。ここで中医学(漢方医学)と西洋医学を体系的に学ぶことができたのです。そして、卒業後に通化市の六道溝衛生学院と言うところで実習生として働いていたときに、その後私の進むべき道を決定づけるような出来事が起きたのです。
それはある日、ガン病棟で起きました。病室から飛び出してきた12歳くらいの少女が私の足元にひざまずき、涙をいっぱいためながらこう懇願したのです。『先生、私のお母さんを助けて下さい!』
見れば、病室の母親らしき女性は末期の肝臓ガン患者で、お腹が妊婦のように膨れ上がっていました。一緒にいた先生のお話では、余命はあと十数日とのことでした。痛みに苦しむ母の姿に耐えかねた娘は、まだ医者ともいえないような私に助けを求めたのです。
1週間後に母親は亡くなりました。私は、医者なのに患者を助けてあげることもできないんだと、非常に悔しい思いをしました。そして、中国にはこんなに薬草がいっぱいあるのに、ガンに効く薬草はひとつもないのか、と落胆もしました。
このとき私は、生涯の中で、ガンに効く漢方薬を研究しようと心に誓ったのです。当時の私は、西洋医学、ことガンの治療に関してごく浅い知識しかありませんでしたが、これほど進んだ西洋医学でもガンは治せないとゆう現実に打ちのめされたのです。
だからこそ、漢方医学にガン克服の道があるのではないかと考えたのです。ガンという病の恐ろしさ、難しさを知らなかったための、無謀な決意といえなくもありませんが...」
重大な決意を胸に秘めた振国は、その後、吉林省の隣、遼寧省海城市の人民解放軍の衛生員となった。それは、中国に古くから伝わる、漢方によるガン治療のための薬草や処方、治療法等を広く集めるのに、格好の職場だったからだ。軍隊には立派な病院や専門書が整った図書館があり、また中国各地から集まってくる兵士たちから地方ごとのガン治療のための薬草や処方、民間療法等を聞きとることができたのだ。
「衛生員をしていた4年間で、薬草や処方だけで800以上が集まりました。私はこれらを整理し分類していけば、ガン治療薬を作れるようになる日も近いと小躍りしていたものです。
しかし、それはあまりにも甘い考えでした。薬草の多くはすでに何らかの形で紹介されたものでしたし、処方も抗ガン効果があるとされる生薬にいくつかの生薬を組み合わせたもので、参考にできるくらいのものでしかなかったのです」
だが、その後、通化市の公務員となり、製薬工場の工場長、市政府の秘書と仕事は変わっても、振国の薬草と処方收集は途絶えることがなかった。そして2、3年後には、中国各地を訪ね歩いて集めた民間療法や秘伝といわれるような処方は1200種にも達していた。彼は、今度はその処方に使われる生薬を分類し、それぞれの長所や欠点を調べ、整理することを始めた。そうすることによって、より効果的な配合による処方を見つけ、ガン治療のための新しい漢方薬を生み出そうと考えたのだ。
「私はまず、抗ガン作用をもつ生薬を始めとした60種類の生薬を絞り込みました。そして、マウスを使った実験等で、さらに半分に選別し、いよいよ処方作りにとりかかったのです」
振国は公務員を休職し、研究に没頭するために自宅に研究所を開いた。その名は、現在と同じ『通化長白山薬物研究所』。しかし、それは振国の家の一角に設けられたごく小さなスペースで、実験用マウスの飼育箱がその大半を占めていた。生薬を加工するための道具は借り物だったし、冷蔵庫は家の外に地中深く掘った穴を代用したものだった。